男子バレー日本代表でパリオリンピックに最年少で選出された甲斐優斗選手。
甲斐優斗選手がバレーを始めたきっかけは父親がバレーをしていたことが関係していると言われています。
また、母親もバレー経験者で日本一になったこともあるそうです。
そこで今回は甲斐優斗選手の父親と母親がどんな人だったのかを調査したいと思います。
甲斐優斗選手の身長が2mもあるんだけど、高身長は父親譲りかも確認してみよう!!
甲斐優斗選手の兄との気になる関係性や兄弟ならではのエピソードはコチラの記事に記載していますよ。
甲斐優斗の父親も実業団の選手で高身長!!
甲斐優斗選手の父、晃宏さんは9人制バレーの元実業団選手だったそうです。
どこのチームに所属していたのか調査しましたが、そこは見つけることができませんでした。
高身長は父譲り!?
身長が200cmもある甲斐優斗選手ですが、その高身長は父親譲りの可能性が高いと思われます。
というのも、甲斐優斗選手は高校入学時185cmあったそうです。そこから計算して上記の父親との身長差を考えると父親もかなり高かった可能性はありそうですね。
実際小さい頃の甲斐優斗選手について母は
「元気な男の子。小さいときから体が大きい分、優斗の後ろに周りの子がついてくるような感じだった」
と振り返っています。
そのため父親もかなり高かったのかもしれませんね!!
バレーのきっかけは父
甲斐優斗選手の父晃宏さんは実業団選手をやめたあと、宮崎県の延岡市でバレーボールの少年クラブの監督をしていました。
そのため、甲斐優斗選手の兄である孝太郎さんが小学二年生で自然と少年クラブに入部しバレーを始めたそうです。
しかし、甲斐優斗選手は厳しい練習を見てしまったため『絶対にバレーをせん(しない)!!』と言っていたと母が明かしています。
そんな甲斐選手がバレーを始めたのは、父が監督をするクラブが全国大会に出場することが決まったことがきっかけだったようなんです。
その全国大会で登録選手に空きが出たためなぜか甲斐優斗選手もベンチ入りすることになりそれがきっかけとなって少年クラブに入部することになったそうですよ!!
もしかしたら父、晃宏さんの作戦だったのかもしれないね!
高校は父の紹介
それは、兄が高校進学のときに父が延岡工業高校で指導を受けた恩師の鍋倉監督がいたからです。
父の晃宏さんは監督を信頼し「息子2人をお願いします」と頼んだそうなんです。
鍋倉監督は宮崎を代表する名監督として知られており、実際に高校入学までまったく記録のなかった甲斐優斗選手を高校3年間で劇的に成長させています。
甲斐優斗さんが高校3年のときには春高バレーに初めて参加し、ベスト4という結果も残しているので父のサポートが現在の甲斐優斗選手の活躍のきっかけになっているんですね。
2020年父他界
そんな甲斐優斗選手の父親は自分の目で春高で活躍する息子の姿を見ることができませんでした。
というのも、甲斐優斗選手の父親は2020年6月に大腸がんでお亡くなりになっているんです。
当時甲斐優斗選手は高校2年生で、兄の孝太郎さんは専修大学に進学したばかりでしたがコロナウイルスの感染拡大が理由で授業がリモートだったこともあり甲斐優斗さんと同じ寮で生活していました。
夜、母から父の幼体が急変したと連絡があった鍋倉監督が、寮のあった日南市から甲斐優斗選手たち兄弟を延岡の病院まで連れて行ってくれました。
そのおかげでなんとか父の最後の言葉『バレー頑張れよ』を父の言葉で受け取ることができたんだって。
この父の言葉のパワーで翌年甲斐優斗さんは春高バレーの舞台でベスト4という成績を残せたのかもしれませんね。
甲斐優斗の母親は日本一経験者
甲斐照美さんはママさんバレーで日本一になったことがあるそうです。
チーム名などはわかりませんでしたがママさんバレーの過去の優勝記録から宮崎県のチームを探したところ
というチームが日本一になっているようですが、母親は2023年に51歳だったことが判明しているので8歳のときになります。
流石に8歳でママさんバレーは無いはずですので、昔は宮崎県じゃなかったのかもしれませんね。
まとめ
今回は甲斐優斗選手の父親と母親について徹底的に調査してみました。
甲斐優斗選手が世界で活躍できるようになったのは父が一番伸びる環境をしっかりと考えて導いてくれたことがきっかけなんですね。
これから活躍した姿を見せることで親孝行したいと思うタイミングで、父親である晃宏さんが亡くなってしまったのは残念としか言いようがないですが、今後も見守ってくれていると信じて甲斐優斗選手は活躍してくれるでしょう。
2024年7月のパリオリンピックが楽しみですね!!
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